ロードサービス隊員の東日本大震災

3月11日、忘れることのできない、「東日本大震災」を経験して……。

~東日本大震災で、JAF隊員が感じたお客様との温かい絆~

JAF特別支援隊の活動記録映像

仙台基地 吉田 直樹(特別支援隊班長・指導員):多賀城市内国道45号線 2011年3月

国土交通省からの要請で、震災直後から5日間にわたり国道45号線上(仙台港北IC~多賀城市八幡付近)に津波で流された被災車両の排除活動を実施しました。
事前打ち合わせでは「この一帯の車両を早急に移動しないと石巻から南三陸・気仙沼エリアの本格的な啓開作業が進まない。」と聞きました。たしかに現場周辺は想像以上の車と無数の瓦礫で国道が塞がれ、自衛隊車両や救援物資を積んだトラックが通行できない状態でした。
私自身は5日間で約70台の車両移動を行いましたが、ほとんどの作業が困難を極め「この状況はいつまで続くのだろうか。」と気が滅入ったこともありました。しかし、作業中に多くの方からいただいた「お疲れさま!」などの励ましの言葉が私の気持ちを奮い立たせる原動力となり、なんとか困難を乗り越えることができました。排除活動の最終日に国土交通省の担当者から「これで石巻以北の復旧に加速がつくだろう。これもJAFのおかげです。」と感謝されました。数日後、石巻のライフラインが復旧し始め、救援物資が届いたニュースを見て、JAFの活動が微力ながら"被災地の支援ができた"と思った瞬間でした。

仙台西基地 佐藤 陽:国道45号線 仙台港北IC付近 2011年3月

国土交通省の依頼により、3月13日に国道45号線仙台港北IC付近にある津波で流された数え切れない程の車両の排除作業を行っている時、避難途中の周辺住民の方から「ご苦労様です。」「JAFはこんな仕事もするのですね、助かります。」「がんばれ!」などの声を多数かけていただき、中には「こんなんしかねえけど……飲んで……ケガしねぇようにね!」と年配の女性から栄養ドリンクをいただいたこともありました。
排除作業に無我夢中だったので、周囲の状況を気にする余裕がありませんでしたが、気がつくと避難する足を止め、私たちの作業をじっと見つめ涙を流す人も多数見かけました。自分たちの「仕事」は、多くの期待と責任を背負っているのだと改めて実感しました。

仙台基地 佐藤 竜児:仙台市若林区卸町 2011年3月

震災直後のまだ食料の流通が少なかった3月中旬、卸町にて燃料漏れ車両のけん引作業で出動した際の出来事です。
車両の吊り上げ作業が終わり、けん引を開始しようとしたところ、お客様から「助かりました。これ、みんなで食べてください。」と、たくさんのおにぎりをいただきました。正直言うと、空腹を堪えて作業にあたっていたので非常に嬉しく、感動しました。あのおにぎりの味は忘れられません。

仙台西基地 佐藤 正典:仙台空港付近 2011年3月

震災直後、仙台空港付近で津波に流された車両の搬送作業に向かいました。
現場は被災車両が溢れた想像を絶する状況で、どのように作業しようかと困惑していました。お客様の車両は他の車両に埋もれるかたちで、形状もひどく破損している状態でした。お客様の身内の方が運転している最中に津波にのまれたことを、お客様は涙をこぼしながら話されてました。なんとか車両を引き出せないかと思案していたところ、瓦礫撤去に来ていた重機の運転手さんが見かねて声をかけてくれました。事情を説明すると運転手さんは「この状況の中、できることからひとつずつ!」と言いながら、重機を使い一台一台車を並べてくれました。おかげで車両が運びやすい状態となり、お客様も「こんな状況のときに……」と大変感動していました。普段では考えられない状況下、その状況の中にいるすべての人が「できることから……」と自分たちの作業を後回しにして協力できたことに励まされ、そして感動しました。

石巻基地 佐藤 優次(基地主任):国道45号線 2011年3月

東日本大震災から4日後、国土交通省からの依頼で国道45号線にある津波被害車両の排除に出動しました。
道路上に折り重なる車両の山を国道脇に並べ、通行路を確保する任務に当たっていると、たくさんの住人の方から「家の中に入り込んだ車両も運んでほしい。」と依頼がありました。しかし、当時最優先すべき作業は国道の緊急通行路確保であったため、お客様ひとりひとりからの依頼を受けている余裕がまったくない状況でした。
ビジネスホテル前にある道路上の車両排除を行っていた時、ひとりのホテル従業員に声を掛けられました。見ると、ホテルの正面玄関にフロントバンパーを空に向けた乗用車が直立状態で寄りかかっており、ホテル内に入れない状況でした。本来であれば、敷地内の作業は当時の任務から逸脱してしまう事案でしたが「宿泊施設が復旧しなければ、被災地の復旧がさらに遅れてしまう。」と感じ、車両排除業務に取り掛かりました。
作業終了後、従業員の皆様から感謝の言葉と、当時貴重品であったスポーツドリンクやお菓子を差し入れてもらいました。そのビジネスホテルは、震災後早い段階で営業を再開し復興の業者の方たちを受け入れてました。

石巻基地 亀山 修:石巻市住吉小学校 2011年3月

石巻市立住吉小学校の駐車場内へ、ドアロック解放依頼で出動しました。
現場は津波で流されてきた付近の車両や小学校職員の車両など約20台が、複雑に折り重なっている状況でした。お客様の車両はその中心付近にあり「車の中から荷物を出したいが、津波で鍵を紛失してしまった。」とのことでした。その車両に行き着くためには、周りの車を飛び越え、さらに隣の車との隙間もほとんどない場所だったので、全身が泥だらけになりお客様も申し訳なさそうに作業を見守っていました。
じつはこの小学校は私の母校であるため、被害を受けた校舎や瓦礫が散乱している校庭を見た時、とても悲しい気持ちになったことを覚えています。当時、学校は避難所になっていて、学校職員であるお客様は「避難者の応対にも追われ大変です。」と話していました。
「今後も車両の引き出しや被災車両の搬送などが必要になった時は、遠慮せずに呼んでください。」と伝えると、お客様は涙を浮かべて感謝してくれました。

仙台基地 大友 大:石巻市 2011年3月

津波被害がひどかった地域で、流された車の引き出しやけん引作業のため出動しました。
その車は激突を免れたらしく、外見上は傷ひとつないきれいな状態でしたが、車内は完全に浸水した形跡があり、修理は不可能だろうとお客様も諦めていました。 「たとえ修理が不可能でも、外装に傷がない限り最後まできれいなままで入庫しよう。」と思いました。当時はまだ電気が復旧していない地域で夕暮れ時だったので、レッカー車の作業灯と自分のマグライトを照らし、障害物を退かしながら何度も何度も確認しながら作業をし、無事に車に傷を付けることなく吊り上げ作業を完了しました。作業終了後、お客様から「無理なのは分かっているけど、とてもきれいに引き出してくれるので、修理してまた乗ってみようと希望を抱きました。」と、とても感激していただきました。どんな状況、状態であっても、お客様にとって大切な車だと際し認識した事案でした。

気仙沼基地 伊藤 敏彦:石巻市内 2011年3月

石巻市内で、津波に遭った車両を自動車工場まで搬送する依頼で出勤しました。
お客様から「震災発生時には自宅に駐車していたけど、津波で100m以上流されてこの場所をやっと見つけることができました。10年前に息子が買ってくれた、今まで大切に乗ってきた車でした。」という話を聞き、瓦礫から引き出す時や搬送する時も、これ以上傷がつかないよう細心の注意を払いながら作業を行いました。自動車工場到着後も、お客様が車内に残された思い出の品々を懸命に探している姿を見て、なかなかその場を離れることができず、お客様と一緒に思い出の品を探しました。
お客様から大変感謝されましたが、私自身「もう少し何かをしてあげたい」という気持ちが、自然と体が動く結果になったと思います。

仙台基地 山口 雅之:亘理郡山元町 2011年3月

山元町のお客様からエンジン点検の依頼があり出動しました。
山元町の海岸付近は、津波によって流されてきた瓦礫類や車両、家の屋根などが散乱し、自衛隊による捜索活動や瓦礫撤去作業などが行われている状況でした。依頼車両は、住宅地よりもかなり高台のところに駐車してあり、タイヤの半分くらいまで 冠水していましたが、エンジン部分はダメージを受けていないようでした。
お客様の要望は、エンジンをかけても大丈夫か点検をしてほしいとのことでした。基本点検から入り、下回りの点検、エンジンルームに入っていた木片などをていねいに取り除き、無事にエンジンを始動することができました。充電系統やバッテリーの状態も問題がなかったことを伝えると、とても感激され感謝していただきました。
自分としては通常の作業を行っただけでしたが、お客様にとっては家も壊れ、大切な物も津波で流された中、唯一流されずに残っていた財産がこの『車』であり、この『車』まで壊れていたらどうしようかと不安の中、JAFに救援を依頼されたようでした。お客様は「この車を末永く乗り続けたい。」とおっしゃっていました。

仙台基地 星川 晃一(特別支援隊班長・技術係長):仙台市若林区今泉付近 2011年4月

津波で田んぼに流された車の救出のため、若林区今泉へ出動しました。現場には車が2台あり、両方とも救出依頼をいただいた年配の女性の車でした。
「私はこの先の海岸線を走行中に津波に遭い、乗ったままここまで流されて来ました。車の中で『もうだめかもしれない……』と諦めかけた時、流されていた車がコツンと何かに当たり突然止まりました。見るとそれは、半年程前に亡くなった主人の車でした。車はここから2km程離れた自宅に置いてあったので、まさかと思い何度も確認したのですが、やっぱり主人の車でした。きっと『まだこっちの世界に来るのは早い!』と主人が言ってるんだと思い、必死で逃げ出しなんとか助かりました。」と話されてました。
もう乗れないのは分かっていましたが、廃車せずに保存したいという希望があったので、できる限りていねい・慎重に作業を行い2台とも修理工場へ搬送しました。作業終了後に「本当にありがとう」と言って、涙を浮かべていたお客様の顔が今でも忘れられません。

仙台基地 土屋 亮介(特別支援隊班長・教育主任):石巻市鹿妻南 2011年4月上旬

4月上旬、津波による水没車両の回送依頼で現場に向かいました。
お客様と合流し現場に到着すると、瓦礫や車両が山積みになっており、お客様の車両を回送できる状態ではありませんでした。
お客様には、JAFができる作業内容を説明し、現在の状況で作業することは不可能であることを伝えると快く理解してもらい、状況が良くなった後に再度依頼していただくことになりました。
申し訳ない気持ちで頭を下げると「わざわざ来ていただきありがとうございました。もし、よろしければどうぞ。」とおにぎりを出されました。そのおにぎりは、お客様家族に当日配給されたもので、食糧難だった当時には貴重な食料でした。配給のおにぎりをいただくのは申し訳なくていねいにお断わりしましたが「せめてもの気持ちです。」とお客様から強く勧められたので、ありがたくいただきました。
食糧難で自分たちが苦しい中、他人のために自分の食事を差し出すことは、なかなかできることではないと思います。この時、人と人の助け合う心を改めて感じさせられました。

気仙沼基地 森 信之(基地主任):気仙沼市内 2011年4月

震災から2週間ほど経った頃、気仙沼市内の中心部へ津波被害の車両のけん引作業に出動しました。
現場では依頼者の車が転覆状態で、一方通行の路地に入り込んでいました。作業方法をお客様に説明したところ、とても愛着の深いお車であることが会話の中から聞いて取れたので、引き起こし作業時には、倒壊しかけガラスが割れている商店の中からアプローチし、なるべくこれ以上破損させないように細心の注意を払い、無事けん引作業に入ることができました。 けん引サービスカーの車内でお客様は、愛車の思い山をたくさん語られましたが、その話をされているお客様の笑顔がとても印象に残っています。まるで家族の話をされているようで、「本当に大切に乗られていたのだなあ。」と改めて思い、震災後の大変な時でしたが気持ちがとても温かくなりました。

仙台基地 村木 健:岩沼市内 2011年4月

震災当時、避難所になっていた「グリーンピア岩沼」に、エンジン不始動の救援要請で向かいました。
故障の原因は、バッテリー上がりでしたので作業自体は15分程で完了しましたが、お客様との会話で「津波で家と車3台が流されてしまい、残ったのはこれ1台だけ。この車も壊れてしまったらどうしよう……。」と大変心配していました。
普段であれば、よくあるバッテリー上がりの作業内容でしたが、今回の作業ほどお客様に感謝されたことは初めてでした。作業が終わり現場を離れる際には、お客様自身が一番大変であるにもかかわらず、レッカー車が見えなくなるまで見送っていただいたことが、とても印象に残っています。

仙台基地 東 義久(特別支援隊班長):仙台市内 2011年6月

震災から3カ月経過した6月、自宅敷地内で津波被害に遭った車両の移動依頼がありました。
自宅の敷地内で津波に流された車両は、間口の狭い(高さ2m、幅3m)建物の奥にあり、さらに2台の車が横転・転覆し折り重なる状況でした。
お客様は周囲の瓦礫撤去が済み、ようやく車両の撤去が始まることを期待していた様子で、行政による車両撤去の順番を待っていました。しかし、行政による車両撤去は4tのクレーン車を使用しなければならず、間口が狭く奥まった敷地からの移動は難しいと言われ落胆していました。
JAFへの相談を促されたお客様は、会員に入っていたことを思い出しすぐにJAFへ連絡を入れ、我々も2台4名ですぐに現場へ向かいました。作業は困難を要しましたが、無事2台の車を路上まで引き出し、車両撤去業者に引き渡すことができました。我々は車両の移動のために作業を行いましたが、お客様は建物の中に残された思い出の写真や品物が取り出せたことに対し、最後まで「ありがとう。」と涙されていました。