JAFのあゆみ:1960年代(フォトヒストリー)
About
一般社団法人 日本自動車連盟(JAF)は2013年4月、創立50周年を迎えました。JAFは、1963年(昭和38)、自動車を安全で快適に利用するための諸サービスを提供する自動車ユーザー団体として設立されました。
フォトヒストリーはJAFの歴史を写真で辿るコンテンツです。各年ごとに契機となった出来事をご紹介します。
Pick Up Photo
1962(昭和37)年度 日本自動車連盟の創立総会を開催
日本に本格的なモータリゼーションの時代が訪れようとしていた1962年(昭和37)4月、ロードサービスなどを提供する自動車ユーザー団体を組織するために関係者が集まった。この席で「日本自動車連盟(JAF)創立準備委員会」を結成し、JAF創立に向けた本格的な活動が始まった。「JAFはオーナードライバーに対するサービス機関である」という基本的な位置付けも、このとき明確になった。同年10月には創立総会を開催し、JAFはひとまず任意団体として産声を上げた。
そして翌1963年(昭和38)2月28日、JAAの定款変更を運輸大臣が認可し 「社団法人 日本自動車連盟」が正式に発足、3月5日の第1回理事会で初代会長に高梨壮夫(東京トヨペット会長)が就任した。さらに会員規約の制定などを理事会で決定し、来るべき事業開始に備えていった。
1963(昭和38)年度 4月に業務開始
1963年(昭和38)4月1日、JAFは正式に業務を開始した。業務内容は故障車への対応を始めとするロードサービス、旅行案内および道路情報の提供、法律相談や保険相談、海外自動車団体との連絡交流、『JAFニュース』(現『JAF Mate』)やロードマップの出版などである。同年6月に箱根地区でロードサービスを開始するなど、観光地の出動範囲を拡大。翌年2月には首都高速道路上のサービスを一手に引き受けた。
ですが創立当初は認知度が低く、自家用車を持つドライバーがまだ少ないこともあり、会員数は伸び悩んだ。乗用車のメーカー系列販売店にも協力を仰いだが、年度末までの入会は約1万1,000台、ロードサービス出動実績は4,942件にとどまった。いまだ組織体制も整わず、期待と不安の入り交じる旅立ちだった。
1964(昭和39)年度 各地で業務運営体制を構築
創立2年目を迎えたJAFは、1964年(昭和39)4月の時点で関東一円にロードサービスが展開できる体勢を整えた。さらに全国にサービス展開の基地となる地方本部を設立していった。
11月に東海本部(現中部本部)を設立し、翌年1月に岐阜、静岡、三重に支部を置いた。また12月の機構改正により、企画および管理業務を行う全国組織としての本部の役割を明確にするとともに、本部から関東本部を独立させて地方本部とした。翌年2月には関東本部がJAF指定工場制を開始したのを始め、3月には関西本部を設立した。
一方ではFIA(国際自動車連盟)認定の日本におけるモータースポーツ統轄機関として、第2回日本グランプリ自動車レース大会(1964年5月2~3日、鈴鹿サーキット)を主催。国外運転免許証の申請と受領代行業務を東京において1965年(昭和40)1月から開始した。
1965(昭和40)年度 統一ロードサービスを開始
前年8月に首都高速1号線と4号線が開通し、この年4月に中央自動車道、東名高速道路の建設が始まった。7月には名神高速道路が全線開通。高速道路のロードサービスはすべてJAFが担当し、高速道路網が着々と整備されていくのに合わせるように、JAFのロードサービスもその存在感を高めていった。
関東本部の神奈川支部では、7月に全国初の統一ロードサービスを開始。それまでディーラーとJAFでそれぞれ行っていたロードサービスをJAFが一元化して引き受けることになったのだ。同時に関西本部が大阪府内で、翌年2月からは東海本部が愛知県内で統一ロードサービスをスタートした。1966年(昭和41)1月からは、JAF会員資格を車単位から人単位に変更。1965年(昭和40)11月には自動車税の増税反対運動で約15万6,000名の署名を集めた。
1966(昭和41)年度 経営が軌道に乗り黒字化
この頃からいざなぎ景気と呼ばれる好況期が始まり、日本の自動車生産台数は世界第3位となった。4月に日産自動車が 「ダットサン・サニー1000」、11月にトヨタが「カローラ」を発売。マイカーブームの口火を切った。
自動車産業の興隆とともに、JAFは1966(昭和41)年度に黒字決算に転じた。京葉高速道路でのロードサービスを始め、関東本部に埼玉支部と千葉支部、関西本部に京都支部を設置した。夏には会員と家族を招き第1回JAFツーリング・フェスティバルを開催。秋に開かれた第13回東京モーターショーの会場では、JAFコーナーを設け周知の徹底に努めた。ドライブ会やドライバースクールなどの開催を始め、車の定期診断、高速道路の走り方講習会も各地で実施。1967年(昭和42)1月には『JAFスポーツ』を創刊し、モータースポーツのライセンス所有者に配布した。
1967(昭和42)年度 高速道路でのサービスをになう
1967(昭和42)年12月に中央自動車道の最初の開通区間となった調布~八王子間で、JAFがロードサービスおよび故障車の排除、パトロールを担当した。以後、新規開通する高速道路の上記の業務はJAFに任されることとなった。この1年間のロードサービス救援件数は初めて10万件を超え、13万8,571件となった。
組織も拡大を続け、7月に中国本部、12月に九州本部を設立。会員数は10月に10万名を突破し、年度末の1968年(昭和43)3月には11万5,743名となった。前年度の会員資格の変更で、運転免許証があれば入会ができる制度にしたことも会員数の増加を後押しした。
なおこの年、日本の自動車生産台数が米国に続いて世界第2位となり、国内では自動車保有台数が7月に1,000万台を突破した。
1968(昭和43)年度 ロードサービス隊員、1年間で倍以上に増員
日本の国民総生産(GNP)が世界第2位となったこの年、JAFは今後の成長を見据え、初の中期事業計画となる第一次5カ年計画を策定した。
11月からは、首都圏で口座振替による年会費の納入制度を導入。会員の利便性の向上とともに入会後の継続率向上をめざした。
4月には関東本部の中に東京支部を設置し、9月に都内の統一ロードサービスを開始。東名高速道路にはサービス基地を5カ所、中央自動車道には2カ所設置した。これらの組織拡大とともにロードサービス隊員は急増し、前年度の2倍以上となる533名となった。
秋季全国交通安全運動の期間中には、東名高速道路で警察庁、運輸省などと協力して車両およびタイヤ点検を行い、交通安全活動の一翼をになった。
1969(昭和44)年度 会員数、20万名を突破
この年6月にJAFの会員数は20万名を超えた。これを記念して7月から11月までの5カ月間にわたり、毎月カラーテレビなど豪華賞品が当たる会員増加推進運動を展開した。
年度末の1970年(昭和45)3月の会員数は、28万5,158名まで増えた。5月の東名高速道路の全線開通、翌年3月の近畿自動車道、中国自動車道、第二神明道路の一部開通に加え、岐阜、三重で統一ロードサービスを開始するなど、高速道路でのロードサービスも多忙を極めた。
組織面では、東海本部を中部本部に改称する一方で、石川、福井、富山の3支部を設置。関東本部には山梨支部を設置した。9月には第1回全国ロードサービス隊員研修会を実施した。
また10月にパリで開かれたFIA総会で、中村俊夫副会長がFIA理事に選任された。